自然崇拝
それは、まだ人類が、森に住んで狩猟生活をしていた頃の長い歴史・・人類の歴史の99%以上・・・を通して経験した事から必然的に発生したものでしょう。人間は自然の一部だと言う当然の認識から発生した人間と自然の共存の思想、哲学です。人類は自然の力の偉大さを認識したからこそ自然崇拝が生まれたのでしょう。・・・そして自然崇拝は、日々の暮らしの思想、哲学から発展して宗教となっていったのではないでしょうか?
自然崇拝は、縄文時代から続く日本の文化、アイヌの文化にあるだけではなく、アメリカ・インディアンやアボリジニの文化の中にも見いだせる古くからの世界共通の思想、哲学でしょう。
近代文明から、自然を客観的に研究するという自然科学が生まれ、それをもって『合理的』の名の下に自然征服がはじまり、自然崇拝を前近代的な非合理的なものとして排除していきました。
しかし、自然崇拝は、愚かな思想でしょうか?
人間は特別な存在で、自然は征服すべき対象だとみなす近代合理主義のほうが
人間は自然の一部だと言う認識から発生した自然崇拝よりも、優れているとはとても思えません。
自然を征服する為の技術が行き過ぎて環境破壊をもたらしました。「行き過ぎて」・・・と書きましたが、そうなったのは、科学技術は自然を人間の生活に最適な方法で制御出来なかったと言うことです。非常に不完全な科学を信じて・・・盲信して、こんな人類の危機的症状を作り出してしまいました。この近代の科学技術文明によって、環境破壊だけでなく、モラルハザードも起こり、多くの人々の精神も自然から離れて崩壊してきているように感じます。
西洋を中心に、自ら文明人と名乗る国の人々は、彼等が未開の国と呼んでいる人々よりもモラル的にも優れていると思ったら大間違いでしょう。そんな発想は、力の弱い文化を攻撃し支配する口実に利用されただけです。ただ単に、近代科学技術を持った国家のほうが、戦争において強かっただけで、凶暴性や残忍性は寧ろ近代文明とやらを持ったヨーロッパの白人のほうがずっと酷かったのではないでしょうか?。・・・そう、凶暴で支配欲の強い人々ほど、大きな科学技術を持とうとするものです。
西洋近代化文明の、自然も他民族も何でもかんでも『征服する』と言う共通の野望は未開人より『野蛮』と言うべきでしょう。
近代から現代にかけて、多くの人々は、生まれた時から自然から離れた生活をするようになり、自然の摂理に対する感覚を失ってしまったが為に、自然崇拝を馬鹿にし始めました。そのくせ、科学と言う名の唯物論、自然科学を盲信し、経済発展、開発という名の持続不可能な自然破壊に気付かず、我々は文明人だとばかりに、破局に向かって行進しているのです。
二進法のマシン(コンピュータ)や巨大建造物、バイオテクノロジーやサイバネティクスなどをもって、人類の技術は素晴らしく、無限に発展すると考えている科学崇拝の方が遥かに危険で軽卒で愚かだと感じます。
科学崇拝は今世紀中に人類を滅ぼすかも知れませんが、謙虚に自然崇拝が行き渡った世の中だったら、今頃人類の危機はなかったでしょう。
宗教とまでは行かなくとも、自然崇拝は、今こそ人類みんなが持たなければならない思想、哲学ではないでしょうか?
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