不合理ゆえに我信ぜず〜キリスト教
『不合理故に我信ず』
と言う言葉が辞書に載っていました。それこそ『逆説』で粋な感じがして、この表現は見て直ぐに気に入りました。瞬間的に、宗教、それもキリスト教のことだと思いました。当時から(・・今でも)宗教の知識はあまり無く、少ない知識での判断でしたが、キリスト教は矛盾だらけだから、きっとキリスト教を信じる理性のある方々の言葉だろうと思いました。仏教ではないだろうと思いました。仏教にはかなり合理性があって、あまり矛盾を感じませんでしたので・・。他の宗教の知識は全くありませんでしたので、その可能性もあるのかとも思いました。(笑)

『不合理故に我信ず』
と言う言葉は感覚的にも共感を持てたのですが、それでも私はキリスト教の不合理さには容認出来ないものがありました。
その、キリスト教の容認出来無い、耐えられ無い部分について書かせて頂きます。乏しい知識で書きますので、ご指摘があればお知らせ下さい。また、私の理解に対し、反論がある方は、キリスト教徒の方であろうとなかろうと、是非ともそこをお書き下さい。私の理解通りの宗教であるのならば、こんなに世界的に受け入れられている事が不思議に感じてしまいます。
さて先ず、最初に容認出来無い部分を揚げれば、
「信じる者は救われる:Those who believe will be saved」
です。聖書に載っている近い表現を調べてみると、
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。【ローマ人への手紙10章9節】
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。【使徒の働き16章30節】
<参考HP>
https://fortheperson.jp/study/christianity-faq/the-believer-saved/
などがありました。キリスト教の神って、なんて人間的で偏狭なのかと思います。
「善行を積んだものは救われる。」「利他の精神を持つものは救われる」のように他人の為に尽くすものが救われるとかなら分かりますが、そうではなく
「イエス・キリストの奇跡を信じ、その存在を信じる者が救われる」
なのです。
「教祖を信じれば、救われる」
と謳っているのは、カルトのような感じがします。信者を増やす為の策略のようです。イエスを信じ無い人でも救おうと言う度量の大きさは無いのでしょうか?
私には
「罪の報酬としての『死』を免れ、永遠の命を与えられるための打算としてキリストを信じなさい」と言っているように聞こえます。
次に、意味不明で容認出来無いところは『贖罪』についてです。
「イエスが人々の罪を背負って十字架に架かった」
と言うところです。

罪の償いとして「損害賠償」をするのならば、罪を犯した本人ではなく、別の第三者が「賠償」することも理解できます。それでも罪の被害者は救われます。
しかし、罪の贖いが「罰」ならばおかしな話になります。別の第三者が罪を犯した者に代わって罰を受け、苦しみ、死んだとしても、その罪を犯した人の贖罪にはなら無いし、罪の犠牲になった人にとっても気持ちが収まら無いでしょう。後味が悪いだけです。
「罰」は罪を犯した人が受けるべきであって、他の人が身代わりでその罰を受けても、意味はありませんし、罪を犯した人の「罪」が減るものでもありません。
しかしキリスト教の考えでは、そうでもないようです。
「人々の罪が許されるためには、何らかの身代わりが必要」
と考えるようです。だから
「イエスは人々の罪が赦される為の身代わりとして、無実の罪を背負って十字架で死んだ」
と言う表現になるのでしょう。
この考え方は私には理解できません。キリスト教徒の方々は、これをどのように理解し、納得しているのでしょうか?

不合理な事でも信じる事を否定はしませんが、我田引水的なキリスト教は私には無理です。

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